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飛鳥・藤原の宮都が世界遺産に登録された理由
建物が残っているわけではなく、多くは地面の下に眠る遺跡です。 それでも飛鳥・藤原の宮都が世界文化遺産になったのは、「国のかたちが生まれた瞬間」を示す証拠がそろっているからです。 登録基準(ii)と(iii)が何を評価したのかを、順を追って読み解きます。
評価されたのは登録基準(ii)と(iii)
世界遺産の登録基準は10項目あり、文化遺産はそのうち(i)〜(vi)のいずれかを満たす必要があります。 飛鳥・藤原の宮都が認められたのは(ii)と(iii)の2つです。基準そのものの読み方は世界遺産の登録基準で解説しています。
基準(ii):価値観の交流
基準(ii)は、ある時代・ある文化圏のなかで、建築や技術、都市計画などに関する価値観の重要な交流があったことを示す遺産に適用されます。 飛鳥・藤原の場合、中国大陸や朝鮮半島から伝わった統治のしくみ・都市の設計・建築や土木の技術が、 日本列島でどのように受け止められ、独自のかたちに変わっていったのかを示す点が評価されました。
仏教寺院の伽藍配置、宮殿の構造、そして藤原京で採用された条坊制の都市設計は、いずれも外からもたらされた考え方です。 それらを受け入れながら、この土地なりの都をつくり上げていった過程が、遺跡の重なりとして読み取れます。
基準(iii):文明の証拠
基準(iii)は、現存する、あるいは消滅した文明・文化的伝統の存在を伝える唯一またはきわめて希少な証拠に適用されます。 飛鳥・藤原では、飛鳥と藤原という連続する2つの宮都の変遷から、東アジアの古代国家形成期に中央集権的な体制が生まれ、 確立していく過程をたどれる点が認められました。
宮殿と役所の跡(政治)、寺院の跡(信仰)、古墳(葬送)という3種類の遺跡がひとつの範囲にそろい、 しかも時代とともにかたちが変わっていく様子まで追える。この密度の高さが、他に代えがたい証拠とされた理由です。
墓のかたちの変化が示すもの
分かりやすい手がかりが古墳です。巨石を積んだ石舞台古墳のような大型の墓から、 牽牛子塚古墳・天武・持統天皇陵古墳・中尾山古墳のような八角形の墓へ。さらにキトラ古墳や高松塚古墳のような、 規模は小さいながら壁画で内部を荘厳する終末期の古墳へと変化していきます。
墓の大きさで力を示す時代から、天皇という地位そのものを制度で位置づける時代へ。 墳墓の形式が変わっていくことは、権力のあり方が変わったことの物証になります。 構成資産の一覧は飛鳥・藤原の宮都とは?19の構成資産にまとめました。
推薦から登録決定までの経緯
2006年に文化庁が世界遺産候補地を公募した際、奈良県と関係自治体が名乗りを上げ、 2007年1月にユネスコ世界遺産センターの暫定リストに掲載されました。 その後、国内の推薦枠をめぐって長く順番を待つことになります。
2025年9月にユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)の現地調査を受け、 2026年6月6日に「記載」が適当とする勧告が出されました。イコモスは構成資産の範囲や保全の手法についても、 適切で評価基準を満たしていると判断しています。そして2026年7月26日、第48回世界遺産委員会で登録が決議されました。
登録された範囲は約137.99ヘクタール、その外側を守る緩衝地帯は約1,127.93ヘクタールです。 遺跡そのものだけでなく、周囲の田園風景を含めて守っていく枠組みになっています。
名称が2つ出てくる理由
検索すると「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」という表記も見つかります。これは推薦段階で使われていた名称で、 2026年7月の委員会決議では「飛鳥・藤原の宮都」が用いられました。英語名は Ancient Capitals of Asuka and Fujiwara です。
日本の世界遺産では、推薦から登録までの過程で名称が整理されることがあります。 登録件数や名称の最新状況は日本の世界遺産一覧の見方で確認できます。
参考にした公式情報
文化庁「『飛鳥・藤原の宮都』に係る世界遺産委員会決議について」